こんな話あんな話

ドラフト1位で入団してきた江夏は、キャンプで快速球を披露し、新人らしからぬふてぶてしい立ち居振る舞いと相まって一気に評判が高まった。
甲子園でのオープン戦。試合前、ベンチ前でウォーミングアップをしていたさい、足もとに唾を吐いた。
近くにいた赤ら顔の男が血相を変えて怒鳴った。

「バカヤロー!グランドに唾を吐く奴がどこにいる。ここはな、お前らの職場じゃないか。」
唾を吐いたつもりはなかった。砂塵が舞い上がる風の強い春先で、砂が口に入った。それをペッと出しただけであったが、それを藤本はとがめたのである。
「どうもすいません」男の顔色を見て、若者は反論せず、黙って頭を下げた。
鼻っ柱を折られた一幕であったが、江夏に不快なものは残らなかった。甲子園のグランド整備に懸ける男の一途なものが伝わってきたからである。
いまも甲子園のグランドに立ち入ると、この球場の主であったかのような老人の赤ら顔がよこぎるときがある。

牙〜江夏豊とその時代〜』
 後藤正治著より

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