こんな話あんな話

寝る前に読む本、目覚めるために読む本

残念ながら、わたしは、寝る前に本を読まない。
本を読むと目が覚めてしまうからだ。
なので、わたしにとって「寝る前に読む本」は、自動的に「(子どもたちが)寝る前に読んであげる本」になってしまう。
二〇〇四年に長男が、二〇〇六年に次男が生まれた。
当然のごとく、わたしたち夫婦は絵本を子どもたちに与えた。
けれども、彼らは、読んでもらうことの方を喜んだ。
けっこう。わたしたちは交代で、昼間はもちろん、彼らが寝る前には必ず本を読んだ。
何百冊もの本がわたしたちの前を通りすぎた。

大好きな本はたくさんあったのだ。
でも、『めっきらもっきら どおんどん』(長谷川摂子作・ふりやなな画・福音館書店)は、とりわけ子どもたち、中でも次男のシンちゃんのお気に入りだった。(中略)

ある年のお正月、シンちゃんの具合が悪くなり、救急車で大きな病院に運ばれた。
そして、そこで、精密検査を受けた。先生は悲しそうにいった。
「急性脳炎です。いいにくいですが、覚悟なさった方がいいと思います。仮に治っても重度の障害が残るでしょう」
幼児集中治療室に五日間。シンちゃんの意識は回復しなかった。そして、そのままふつうの病室に移された。わたしたちは眠りつづけるシンちゃんのベッドの横にただ座っているだけだった。わたしたちにできることは「本を読む」ことだけだった。(中略)

病室に移って三日後のお昼だった。妻は昼御飯を食べに食堂へ。残ったわたしは、やはり絵本を読んでいた。何を読んだのだろう。もうほとんど覚えてはいないのだが。一冊目を読んだ時、シンちゃんが反応した。二冊目で目をうっすらと開いた。もっと読むのだ。もっともっと。三冊目でシンちゃんがかすかに笑ったような気がした。そして、四冊目が『めっきらもっきら どおんどん』だった。
おかあさんと離れて遠くの国へ行く「かんた」。

そのおまじないのことばは、もちろん、「めっきらもっきら どおんどん」。
わたしは口をシンちゃんの顔の近くにもってゆき、できるだけ大きな声でいった。
「めっきらもっきら どおんどん!」シンちゃんが笑った。
はっきりと。 わたしを見つめて。 それから、「かんた」は遊んで、歌った。
「めっきらもっきら どおんどん!」シンちゃんはにっこり微笑み、今度は声を出して笑った。やがて、おかあさんのところに戻ってくる「かんた」。
もちろん、わたしは叫んだ。 「めっきらもっきら どおんどん!」
シンちゃんはゲラゲラ笑った。 いつもみたいに。
そこに妻が戻ってきた。 だから、わたしはいった。

「シンちゃんが戻ってきたよ。ぼくたちのところに」
妻は泣いた。 先生は「奇跡ですね」とおっしゃった。
そうじゃない、とわたしは思う。
寝る前に読む本は、目覚めさせる力を持っているんだ。

高橋 源一郎著 「飛ぶ教室」55号/ベスト・エッセイ2019より

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